「さびしさ」からの・・・
いかがおすごしですか。
肉眼では見えないやっかいな相手との長い闘い、今までに経験したことも無いような静かな闘いが続いています。
人と人との日常的な「横」のつながりが分断されて、どこか所在無げな日々でありましょうか。
こんな所在無さ、それをあえて作った人々がおりました。
そうです、中世の遁世人(とんせいにん)たちです。あの人達は、「横」とも「縦」ともそのつながりを絶って憂世を離れました。
ひたすら自分らしくあろうともがいたのです。
そして、その果てに出会ったのが「さびしさ」です。
この「さびしさ」は、何かの不足や欠落をなげくものではありませんでした。むしろ、ぎりぎりの果てに落ち着いた心境なのです。
西行法師の歌にこんなのがあります。
さびしさに耐へたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里
…このしみじみとしたさびしさに耐えられる人が私のほかにもう一人くらい居ればいいなあ。
そうしたら、そんな人と庵を並べて(同じ方向を見つめて)住んでもよいなあ、この冬の山里で。
「さびしさ」とは、「さぶ=それらしくあろうとする」という気持ちでしょう。
つまりは、自分らしくあろうと思って、なにかそれらしさにストンと重なって収まりそうな時、それは何かと改めて問われても、うまく言い表せない、言い表せないながらもなにか充足した思いに包まれる、そんな心のありように中世の遁世人は至ったのではないかなあ、と近ごろ思うようになりました。
人の「縦」のつながりは公的な社会的秩序を保ちます。遁世はまずこの「縦」のつながりから自由になります。
「横」のつながりは私的な人間関係を保ちます。遁世はこれすらも却って不自由の端緒といって否定します。
人間として、そんな傲慢さがはたして許されるのでしょうか。縦横の関係を離れてあの人達はどこに向かっていたのでしょうか。
西行の歌にはこんなのもあります。
仏には桜の花をたてまつれ我が後の世を人とぶらはば
…え、私の死後、私を弔うのかい。それならば、仏さまに向かってあのはかなくも美しい桜の花をささげてくれ、私に向かってではないよ。
人はそれぞれ、銘々に、仏さまに向かって桜の花をささげる。
永遠という同じ方向に向かって、はかないながらも精いっぱいの祈りをささげる。
そういう人と人とが、ほんとうは縦の関係でもなく、横の連なりでもなく、人と人として出会っているのですよ、と西行は言っているように思えるのです。
現在の「横」の分断の状況のなかでこそ、ほんとうのかかわり方と、かかわり方にかかわっている自分を、ゆっくりと、そして「贅沢に」、見つめ直すこともできるのだと思います。
これを千載一遇のものとして受け入れて、自分がストンと収まるぎりぎりの「さびしさ」の心境へと転じてみませんか。
2020.3.24. 吉田 究